一式戦闘機「隼」


   一式戦闘機は、太平洋戦争の開戦直前に制式化されたため、海軍の真珠湾攻撃に呼応して陸軍がマレー半島侵攻作戦を開始した時点で、わずか40機しか実戦部隊に配備されていなかった。しかし、加藤建夫少佐率いる一式戦闘機の部隊が、パイロットの高い技量もあって米英の戦闘機を圧倒し、地上部隊の進撃を支えた。この活躍は、「加藤隼戦闘隊」のタイトルで映画化されて大ヒットし、戦時中、陸軍戦闘機「隼」は、海軍の零式戦闘機よりも国民に知られた存在だった。  ただ、一式戦闘機は構造上、主翼内に武器を装備することができず、初期型は機首に7.7ミリ機銃が2丁だけという貧弱な火力だった。後期型から12.7ミリ機関砲(日本陸軍は口径12.7ミリ以上を機関砲と呼称した)に換装されたが、太平洋戦争中盤以降は連合軍の高性能機の前に苦戦を強いられた。後継機種の開発が遅れたこともあって、終戦まで陸軍の主力戦闘機として戦わざるを得ず、生産数も5700機を超え、陸軍機としては最多となった。写真は、42(昭和17)年から生産が始められた一式戦闘機2型(米海軍提供)。なお「隼」は、国民に親しみを持ってもらうため、陸軍が定めた愛称だった