
零戦の後継となる「一七試艦戦」として1942(昭和17)年、三菱重工業に開発が命じられた。しかし、三菱が零戦の製造と改良に忙殺されていたことと、海軍がエンジンに選定した中島飛行機製「誉」の不調で作業は遅れ、試作1号機の初飛行は44(昭和19)年5月にずれ込んだ。しかも、機体の性能は速力、上昇力とも零戦を下回ってしまい、艦上戦闘機としての開発はそこで中止された。
ただ、三菱側はエンジンの性能不足に足を引っ張られたと不満を感じており、離昇出力2200馬力の自社製エンジン「A20」(制式名称『ハ四三』一一型)に換装して同年10月に自主テストを行った。その結果、最高速度は時速624キロ、上昇力も高度6000メートルまで6分5秒という驚異的な性能を示し、当時の米軍機に対抗できる可能性を秘めていることが明らかになった。このため、海軍も局地戦闘機「烈風」として制式化することを決め、45(昭和20)年に入ってから三菱に量産を命じたが、既に国内の航空機工場は「紫電」と「紫電改」の量産で手一杯な上、米軍の空襲による被害もあって烈風に割り当てる生産ラインはどこにもなかった。
烈風が搭載する予定だったA20エンジンは、「誉」と違って無理な小型化をせず、余裕を持って高出力を出すことができた。もっとも、試作型が42(昭和17)年2月に完成しながら、シリンダー内部の異常高温やピストンの損傷などのトラブルが続出し、実用化できたのは翌43(昭和18)年6月にずれ込んだ。また、米軍の空襲や中部地方を襲った地震の影響で工場が壊滅し、量産のめどは立たなかった。「烈風」の開発が早く進めば戦局の展開も変わったいたとの見方もあるが、日本の工業力で量産にこぎつけるのは難しく、試作機数機を製造したのみで幻と消えた。