
「紫電」の性能がテスト段階で期待を大きく下回ったことから、川西航空機は海軍に根本的な再設計を提案し、1943(昭和18)年3月に開発作業をスタートさせた。主翼を低翼配置にして、故障が多かった伸縮式の主脚を標準タイプに変更、胴体断面も細く、垂直尾翼の形状も変えるなど、空力的な合理性を追求した。試作機は44(昭和19)年1月に完成、テストの結果、紫電の問題点はほぼ解消され、「誉」エンジンがスペック通りの実力を出せば、最高速力が時速630キロに達するだけでなく、運動性、上昇力も格段に向上した高性能機に生まれ変わったことが明らかになった。
海軍もその結果に満足し、「紫電改」として量産を命じた。しかし、戦局が急速に悪化する中で生産ラインを整えるのに時間が掛かり、何とか量産体制が整ったのは45(昭和20)年に入ってからで、ようやく実戦部隊に配備されたのは同年2月だった。実戦では期待通りの性能を発揮し、その月に横須賀基地に配備された紫電改が単機で12機の米軍F6Fと渡り合い、うち4機を撃墜したほか、翌月には部隊ごと紫電改に改編された松山基地の第343航空隊が、米艦載機部隊との遭遇戦で1日に52機を撃墜するといった大戦果を上げた。
海軍では零戦の後継となる主力戦闘機として1万機以上の大量生産を計画したが、米軍の空襲で工場が機能せず、400機あまりを生産したところで終戦を迎えた。なお、「紫電改」は試作機としての通称で、制式名称は紫電二一型。機体をさらに改良した三一型、エンジンを換装した三二型なども少数製造された。また、艦上機型も試作されたものの、既に日本の空母機動部隊は壊滅しており、量産はされなかった