
局地戦闘機とは敵の大型爆撃機を迎撃するための戦闘機で、艦載機ではなく陸上基地からの運用を前提としていた。太平洋戦争も後半になると、米軍の大型爆撃機による空襲が現実のものとなり、海軍も局地戦闘機の実用化を急いだ。紫電は、川西航空機が開発していた水上戦闘機「強風」の機体を利用し、1942(昭和17)年4月から開発がスタート。離昇出力1990馬力の強力な「誉」エンジンと20ミリ機銃4丁(初期型は2丁)を搭載、新開発の自動空戦フラップを備え、戦況打開の切り札となることが期待された。
ただ、川西は水上機や飛行艇の製造を専門にしていたメーカーで、初めて手掛けた陸上機ということもあって開発は難航した。「強風」の「火星」エンジンを直径の短い「誉」に換装することから胴体の大部分を再設計する必要に迫られたが、開発に掛ける時間を節約するため中翼構造(主翼が胴体の中段に設置する形式)はあえてそのままとした。主翼の位置が高い分、主脚は長くなり、主翼下面に引き込むには伸縮式の複雑な構造にせざるを得なかった。
1号機は43(昭和18)年7月に納入され、性能テストを実施したところ、時速648キロを目指していた速力は同574キロにとどまり、運動性も当初の期待よりも低かった。しかし、戦況の悪化と他の新型機の開発が進まないこともあって、その翌月から量産が開始された。44(昭和19)年2月から実戦部隊への配備が始まったものの、誉エンジンが不調続きだった上、複雑な構造の主脚が故障しやすく、事故が多発した。自動空戦フラップの扱いも困難で、シンプルな零戦に比べて操縦は難しく、パイロットを悩ませた。終戦までに1000機以上が生産されたものの、実戦では目立った活躍はできなかった。