艦上攻撃機「流星」

艦上攻撃機「流星」の増加試作機。逆ガル型の主翼が目を引く【時事通信社】


 太平洋戦争開戦以前の急降下爆撃機は、対空砲火をかいくぐる敏捷な運動性を実現するため機体は小型で、搭載する爆弾は250キロ弾が限界だった。一方、重量が1トン近い魚雷を搭載する雷撃機は大型になったが、運動性はそれほど高くなくても困らなかった。ところが、各国の軍艦が装甲や対空装備、速度性能を強化させるようになると、急降下爆撃機には500キロ以上の大型爆弾を搭載する必然性が生まれた上、雷撃機にも高速で回避行動を取る敵艦を追尾できるだけの運動性が求められるようになった。1941(昭和16)年に日本海軍が愛知時計電機航空部(後の愛知航空機)に開発を命じた「十六試艦上攻撃機」は、そうした事情を反映し、1機種で雷撃、急降下爆撃、水平爆撃のいずれも可能であることが条件とされた。


 海軍の示した要求性能は過酷で、500キロ爆弾を携行して最大速度は300ノット(時速556キロ)以上、航続距離は1000海里(1852キロ)以上、固定武装として20ミリ機銃2丁を搭載するというものだった。当然、開発は難航し、どうにか要求に近い性能を発揮できる機体が完成したのは日本の敗色が濃くなった44(昭和19)年4月のことだった。「流星」と名付けられた新型艦攻は離昇出力1825馬力の中島飛行機製「誉」一二型エンジンを搭載し、最大速力は543キロに達した。ただ、機体は全長11.5メートル、全幅14.4メートル、全備重量5.7トンというサイズで、艦載機として運用可能なぎりぎりの大きさになってしまった。機体下部に爆弾倉を設けた関係で中翼構造(主翼が胴体の中段に設置する形式)にせざるを得ず、主脚を必要以上の長さにしないため、主翼は途中で屈曲した「逆ガル」型を採用した。


 愛知航空機が何とか生産体制を整えた頃、ちょうど米軍による日本本土の爆撃が激しくなり、工場も被害を受けて生産は中断。飛行隊が編成できる機数がそろったのは45(昭和20)年に入ってからだった。日本の空母機動部隊は既に壊滅しており、艦上機として運用されることはなく、終戦直前に実戦へ投入されたものの、目立った戦果を上げることはできなかった。