
日本海軍初の全金属製単葉の艦上攻撃機で、1935(昭和10)年に中島飛行機が開発を始めた。海軍は外部兵装を最大800キロ搭載でき、最大速度は333キロ以上、航続力は250キロ爆弾2発を積んで7時間以上、着陸滑走距離100メートル以内といった過酷な条件を示し、中島は引き込み式の主脚や可変ピッチプロペラなどの新機軸を織り込むことで、要求仕様を上回る性能を実現した。37(昭和12)年に制式化され、当初の名称は「九七式一号艦上攻撃機」だったが、後に「九七式艦上攻撃機一一型」と改称される。
機体サイズは、全長10.3メートル、全幅15.5メートルとかなり大型(零戦二一型は全長9メートル、全幅12メートル)になってしまい、主翼を真ん中で折り畳むことで何とか空母で運用できるようにした。エンジンは自社製で離昇出力830馬力の「光」を採用したが、非力な上に直径が大きく、コックピットからの視界が悪いという問題があった。38(昭和13)年に量産が始まり、日中戦争が激化していた中国大陸の陸上基地部隊に優先的に配備された。
39(昭和14)年、エンジンを離昇出力970馬力の「栄」に換装した「九七式三号艦上攻撃機」(後に九七式艦上攻撃機一二型と改称)の生産を開始。「栄」は直径が短いため、機首がスマートになって機体は空力的に洗練され、出力の増加とも相まって最大速度、上昇力ともアップした。41(昭和16)年12月の真珠湾攻撃には、この三号艦上攻撃機が参加。143機が出撃し、雷撃と水平爆撃で米艦隊に大打撃を与えた。太平洋戦争序盤では空母機動部隊の航空打撃力の中核となったが、43(昭和18)年以降は損害が目立つようになり、第一線を退いてパイロットの訓練や哨戒任務に回った。