
急降下爆撃を目的とした全金属製単葉の艦上爆撃機として1936(昭和11)年から愛知時計電機航空部(後の愛知航空機)が開発を進め、39(昭和14)年に制式化された。急降下爆撃は、艦艇や地上目標をピンポイントで攻撃できる爆撃法として、日本海軍は早くから注目していたが、急降下とその後の急激な引き起こしに耐えられる堅固な機体と軽快な運動性という特長を兼ね備えることが必要で、実用的な艦上爆撃機の開発は難航した。
愛知時計電機は既に複葉の九四式、九六式の艦上爆撃機を開発した経験を持っていたが、全金属製単葉の九九式では主翼にモノコック構造の薄型楕円テーパー翼を採用、剛性を高めながら空気抵抗を減らすなど、当時の最新技術を取り入れた。また、エンジンは離昇出力1070馬力の「金星」を搭載し、高度3000メートルまで6.5分という上昇力を実現した。最初の量産型である一一型は、全長10.2メートル、全幅14.4メートルとコンパクトな機体に仕上がった。固定式の主脚は鈍重な印象を与えるが、急降下時には適度な空気抵抗を生んだ。
41(昭和16)年12月の真珠湾攻撃には、合計129機の九九式艦爆が250キロ爆弾を抱いて出撃し、米艦艇と飛行場などの地上施設に大きな損害を与えた。翌42(昭和17)年4月のインド洋海戦では、九九式艦爆が英軍の重巡洋艦3隻、空母1隻を撃沈し、その際、艦爆隊は70%を超える驚異的な命中率を上げた。しかし、連合軍の航空戦力が整うにつれ、低速と防弾装備の貧弱さから大きな損害を出すようになった。43(昭和18)年にはエンジンをパワーアップした二二型の生産に移行したものの、連合軍艦艇の防空力が高まり、ほとんど戦果を挙げることはできなかった。しかし、後継機種の開発遅れもあって、戦争後半まで第一線で戦わざるを得なかった。