
ドイツのジェット機・メッサーシュミットMe262を参考に、1944(昭和19)年から航空技術廠(海軍の航空機に関する技術開発を担当する部門)と中島飛行機が共同で開発を始めた。ドイツからもたらされたのはMe163と同様に文献資料だけで、これを基に陸軍がMe262をフルコピーした戦闘機「火龍」を開発しようとしたのに対し、海軍はMe262に搭載されていたJumo004ターボジェット(推力900キロ)の製造は技術的に困難と判断、「橘花」はまったく別の機体を目指した。
ドイツからの技術情報には、より小型のジェットエンジンBMW003のデータも含まれていたことから、これを参考に推力475キロの軸流式ターボジェット「ネ20」を製造し、45(昭和20)年3月に何とか試運転までこぎ着けた。ただ、ジェットエンジンのタービンは極めて高温になり、当時の技術では耐久性を持たせることが難しく、実用レベルまで改良できたのは同年6月になってからだった。機体はMe262をスケールダウンした格好で、主翼も後退翼は断念してテーパーをかけた先細型の形状とするなど、日本の技術力で製造できるスペックにまとめられていた。
2基のエンジンを試作1号機の機体に搭載して同年7月に地上滑走試験を実施、8月7日には11分間の試験飛行に成功する。しかし、11日の第2回の試験飛行で離陸に失敗し、機体が大破したところで終戦を迎え、日本初のジェット機はただ1回の飛行でその生涯を終えた。なお、陸軍の火龍は試作機の製造どころか設計の途中で終戦を迎えており、ドイツの先進技術を身の丈に合った内容にグレードダウンしようとした海軍の方が現実的であったと言える。