
1944(昭和19)年6月のマリアナ海戦で惨敗したことを受け、航空技術廠(海軍の航空機に関する技術開発を担当する部門)が開発した自爆攻撃機。重さ1200キロの徹甲弾を機首に埋め込み、敵機が追いつくことのできない高速で飛行し、搭乗員を乗せたまま敵艦に体当たりするという単純な戦術を構想していた。高速を得るためにロケット推進を選択したが、薬液ロケットを開発する技術を当時の日本は持っておらず、推力800キロの火薬ロケットにより最高時速648キロで飛行した。
簡単な構造だったため、同年9月には初号機が完成した。全長6.1メートル、全幅5メートルと機体は小型で、胴体と尾翼部分が金属製、主翼は木製だった。全備重量2270キロのうち半分以上の重さは弾頭部の徹甲弾で、そこに500キロのさく薬が仕込まれていた。生還を前提としないことから降着装置はなく、母機となる一式陸上攻撃機に抱えられて離陸、目標の近くで切り離してロケットに点火し、一直線に敵艦を目指した。ただ、火薬ロケットはわずか9秒しか燃焼せず、高度3500メートルで発進した場合でも航続距離は37キロにしかならなかった。
もともと鈍重な母機の一式陸攻は2トン以上もの桜花を抱えたまま米軍機の哨戒圏内に入らざるを得ず、最初から成功が見込めない無謀な戦術だった。45(昭和20)年3月に初めて出撃した15機の桜花は、目標としていた米艦隊の100キロ以上も手前で米軍機に捕捉され、母機もろとも全機が撃墜された。終戦までに70機以上の桜花が出撃したとされるが、さしたる戦果を上げられないまま、桜花パイロットや母機搭乗員の若い命を散らすだけに終わった。ジェット推進の改良型なども試作されたものの、実用化はできなかった。